blue(book)sのブログ

年間読了リスト、過去のブログ置き場

2012/03/20より

さて、東京からトンボ返りの休日です。何もすることがないというか、何もしたくないというか、嵐の前の静けさというヤツでしょうか。今回の収穫は、スカイツリーを見ることもあったのですが、それよりむしろ、教科書図書館に無事、行くことができたので、まあまあ充実していました。小学校・中学校・高校と学んできた教科書に再び出会えました。それも驚きの連続とともに。

 

私はというとたぶん何かを考えて「理系」を選択し、高校・大学・大学院と学んで来たのでした。今ではその区分こそ意味のないものであることを知っていますが、当時は、かっこよく「理系」だと思っていたのでした。別に苦手教科はないと今も昔も思ってはいますが(ただ経済関係は全然ダメです)、理系選択の理由はとくにないのでした。それで、教科書たちを見て思い出したことは、不思議と今も興味のある内容は、国語の教科書のどこかに書いてあるのでした。

例えば、前にも「大陸は動く」(光村図書5年上・『銀河』)について書きましたが、中学の教科書にも実は地球科学に関するエッセイはあったのです。それは島村英紀「深海に潜る」(東京書籍中2・『新しい国語2』)です。これは教科書用の書き下ろしでありますが、フランスの潜水調査艇「ノーティール号」乗船のはなしでした。内容に関してはさっぱり記憶になく、日本海溝の鯨瞰図だけは覚えているという悲しい現実でした。実は結構、地球科学へのセンスオブワンダーは、刷り込みされていることに愕然としました。でも、中学の国語の授業に関しては、何一つ記憶になく、教科書の内容よりも担当の先生が誰だったかによるというのが実情です。

 

他にも中3の国語の教科書には、村上春樹ジャック・ロンドンの入れ歯」(今は『雑文集』で読めます)、三田誠広いちご同盟」、魯迅竹内好・訳)「故郷」、松下竜一「絵本」、といった名チョイスばかりでした。

 

さて、高校の頃の教科書のはなしに戻るのですが、第一学習社の「国語Ⅰ 現代文・表現編 」に丸山健一「マラソン・ランナーは孤独か」が載っていました。初出がちゃんと書いてありました。「安曇野の強い風」(文芸春秋、1986年)からの引用でした。その本が手元にないため、どこからどこまでの引用で、どこからどこまでが改編されているのかは不明です。ただ、その中の見出しを並べると

 

ラソンは人生の断面だ

肉体と精神が一つになる

頑張れという言葉の意味

 

と、いかにも絶好調時の丸山健二を表していることばではないかと思います(今も絶好調だと思いますが…)。世間的には90年代以前まで、というのがもっぱらの著者の評価なのかもしれませんが、全著作を読んでいるわけでもないので、私には分かりません。ただ、高校生の私に強く響いた内容であったことは否定できません。『自己』とは何かを改めて考えさせられます。

 

で、ほかにはどんな内容があったのかと目次を見て仰天しました。大庭みな子「私の八月十五日」、日野啓三「私にとって都市も自然だ」、真木悠介「草の言葉・魚の言葉」(この中に石牟礼道子苦海浄土」の紹介あり)、野村雅一「身体像の近代化」(この中にモースの「日本その日その日」、ビゴーの描画)とショックを通り越して、なぜこうも自分が似たようなモノに惹かれるのかが、分かったのでした。実はこの時期に散々、国語の教科書によって、私の脳内に叩き込まれていたのでした。ショックもありましたが、まあ納得したわけです。同時に思ったのは、学校の授業というものは、こうありたいなと思えるのです。教養とか知識とか目に見えないものが、その人の血となり肉となり、その後の人生を形作っていって欲しいと思いました。毎日の授業といえど、やはり授業を大事にしていかないといけないなと反省するばかりです。

 

また、第一学習社の「現代文Ⅰ」には、中島敦山月記」、夏目漱石「こころ」、井上靖「利休の死」、伊藤整「若い詩人の肖像」とこれまたにくいチョイスです。男の子だな~と思えるラインナップでした。

 

ルーツを探るという意味でも、何だか楽しい発見でした。実は80年代後半に書かれている文章が多いのです。それは、90年代はじめに検定された教科書だからなのでしょうが、やはり、私の意識は今もその時代に縛られているのだと、確信しました。

 

教科書図書館自体は小さい図書館ですが、新しい数学と理科の検定教科書も置いてあり、東京近郊の学生さんor教員の方にはかなり勉強になる場所なのでは?ただ平日の月・火・水しか空いてないのが問題です。国語の授業などで盛り上がったことのある人は、一度、行ってみると懐かしさにテンションが上がると思います。