2006/08/06より

  ジーンダイバー(genediver)、10年以上前の作品(1994)なのですが、今観ても十分おもしろいです。当時の最新の科学の成果を用いていて、今では、なるほどと納得できる話が多いのですが、当時こどもだった私には、ほとんど内容は理解できなかったのではないでしょうか?ミトコンドリア・イブなんて、大学に入ってから知ったのに…、NHK教育恐るべしです。話も展開もものすごくSFです。実写とCGとアニメの3セットっていうのが懐かしいです。ああこの頃は、過渡期だったんだなと、思うわけです(ウゴウゴルーガとか)。

2006/07/17より

  最近、思う事は、これまでの10年間とこの先の10年について。

 10年という単位は、振り返るのにはちょうどいい年月だと思うようになった。というのは、大学に入った頃は、1年1年ちゃんと数えることができたのに、最近は、1年単位で物事を思い出せなくなっている自分がいる。忘れっぽいとか、そういう事ももちろんあるけれど、1日1日がどこかで加速している。もちろん、瞬間の、感覚的にはゆっくりと遅いのだけれど。全体の流れとして、びゅんびゅん加速している。そんな感じ。漠然とした不安があるわけではなく、むしろいつものように何も感じない、考えていないまま、この先の10年の事を思う。

  これからいろんな人がいなくなったり、死んだりしていくけど、つらいなとかしんどいなって心が感じるだけで、それだけでいいことにして過ぎ去って行く自分を見つけるのが、とても怖い。生きることは、厳しいのだけど、厳しさだけで、この先10年を生きるのは、どこか本末転倒な話に聞こえないか?いつもその場の勝ち負けを人は気にするのだけど、10年そしてその先も、そういった観念に囚われている自分を振り返った時に、嫌な人間になったと思うのだろう。ある観念に言葉を与えれば、そこから自分が生まれる。けれど、交雑なくして、新しいものは生まれない。他者と自己の理解を進めるためには、ふたりないし3人のかたちが必要、…なのかもしれない。

2006/01/09より

  2006年になりました。一年一年が早いです。さて今年は、就活に勤しまなければなりませんが、さてさてどうしましょうか。SE?MR?学校の先生?取り敢えずどこかに就職する?という甘い考えではどうも…。自分に適している会社・仕事・職場を探す=自分探し?言葉では何とも言えますし、勝ち組は何を言っても正しく聞こえるもの。というか、そういう自分を嫌と言うほど思い知らされたのが、この年末年始だったような。要するに「考えている時間」があれば行動しなさい、ってことです。あと、変なプライドは捨てることです。社会人年齢0才の分際で、根拠も意味もない歪んだプライドなんてもってどうするんですか。

 そういう意味では、昨年から読んでいた杉山尚子「行動分析学入門」(集英社新書)は、いい刺激になったかも。心理学は、大学に入学したら一度は、学んでみたいと興味を持つ学問のひとつである。心理学にもいろいろ分野はあって、この行動分析学もその中のひとつでに当てはまります。専門用語が、いくつか出てくるので、うっと思う人もいるかもしれませんが、それはそれとして、内容は中々イタイ処を突かれるものばかりです。行動の空回りというか、矛盾を生み出す意味のない言葉の循環ってものに誰しも陥るもの、頭がいい人わるい人関係なく、そういう風に逃げてしまうものなのだと、反省するとともに気をつけないとなと思います。

 昨年ベストに挙げた梨木香歩「沼地のある森を抜けて」(新潮社)を読んだあと、改めてエッセイ「ぐるりのこと」(新潮社)を読む。身近な世界と広い世界の歪み。グローバルとローカルなものに、世界は二分されているわけではないのだけれど、なぜかその世界の歪みは別々のものであるかのような錯覚に陥ってしまいます。すでに空間的な世界の歪みに対する意識のズレを感じるとともに、時間軸に対しても意識というのは連続ではなく、どこか遠いお話のような気になってしまう。(連続しているものすべてを捉える、把握することなど不可能なこと。だから毎日毎日、脳のメモリーをきれいに掃除する必要があるのだけれど。)だからこその毎日の積み重ねありきで、突然、偶然に何かが起こるわけではなく、やはりどこかで必然性が生じて、物事は進んでいくもの。思索の限り、それはすべて机上の空論であるし、物語は必然的に現実世界から生まれてくるものでしかない。ただしその逆は、成立しないことは言うまでもないことでしょう。

2005/8/28より

 久しぶりに読書な日々。寝苦しい夜もなく、秋も近いと思える日々。蝉の鳴く声がだんだんと遠くへ行くようです。

西の善き魔女』Ⅵ巻一気に読みました。各章の「いいわけ」というサブタイトルが、このシリーズの最終巻としてしっくりきている気がします。内容は、というか世界そのものの存在する意味が、このオチか。象牙の塔はいいのだけれど、どうも全体的に説明不足な感は否めない。が、この広大な世界の設定でさえ、肝心の物語にはあまり寄与していない。いや、逆に言えば世界の存在理由なんてこんなものだったりするのではないか。つまりは物語と人物の成長に世界の細かな設計図はいらないということ。このオズの魔法使い的なあっさりとした感じが、このお話の正しい結末なのかな。しかし、全キャラクターが揃いも揃って濃いなあ。勝負には勝ち負けもなく、ただ己の信ずる道をまい進する。とにかく相手が誰であれみんな強い。そんな印象を強く受けたお話でした。

2005/06/19より

 唐突に、昔ジョイン・ヨーレンの長編「光と闇の姉妹」「白い女神」の2冊を読んだときの、fantasyの「ファ」の字もよくわからないまま、ただひたすら読んだ、あるいは引き込まれたことを思い出す。fantasy自体の定義は今もよくわからないのですが、物語そのものが『物語られる』何かであり、その中には物語を動かす何かが漠然としてではあるが確かに存在する、といったイメージを持っている。「その何か」とは異世界であり、登場人物たちであり、物語は成長あるいは崩壊の過程である。そこに異なる法則といったシステムを持ち込むことで一つの物語としての体裁を成している。

 

 そう考えるとほとんど「何か」が起こらないと物語りが始まらない。小説が常にこの「何か」を求めることを渇望しているひとを対象としたものである限り。別の世界に吸い込まれるのは容易い、けれどそこで自分の位置、居場所を作るにはどうすればよいのか。そして、何がしたいのか、というかむしろ何をするのか。『突然の何か』は、本当は突然来るもので、ページの向こう側にはないのかもしれない。

ブログ復活

ブログを久々に開設。

 

Twitterに書くよりもいいかなと思って。

 

はじめは、過去のブログからいろいろ転載しながら行こうと思う。

 

基本的に、本やゲームについて思うことを徒然なるままに。