2007/04/14より

 読書も手に付かず、乙一『ZOO』(集英社)を適当に流し読みです。ユリイカ4月号の米澤穂信特集を読みながら、セカイ系ってなんじゃらほいと思いながらも、95年以降のここ十年について、原因と結果というか、流れてきたものは何だったのか?ということを、抽象的な言葉の羅列ではなくて、具体的な作業として何を思い浮かべられるか、と最近考えるようになりました。情報社会とかそういう言葉ではなくて、この先の十年を考えるに、すでに手遅れな部分ってあるのかもしれない。でも、若い力を信じて付き合っていくということは、その上の世代の義務だし、伝えていくこと、それ自身の意味を失ってはいけないような、そんな気がするのです。(あるいはだからこそ、教育の現場に立っているともいえるし。)この十年とこれからを常に頭のどこかで考えながら、世紀を跨いでも、まだまだ拭えないことが多いことに気付く。もちろん、本ブログのタイトルにもあるように、『時の流れはみな一様なようで』、失う意味、救い出す意味、それぞれに繋がるものがどこかにあると信じているのですが。ある側面から光りを当てれば、必ず影ができる。二者択一であれば、簡単なのですが、そうではない場合、知らない闇はどんどん増えていき、いずれ地球表面を覆ってしまうようなイメージ。境界のない時代、境界は見えないようで、実はものすごく大きな壁や落差になっていて、どれだけ手を伸ばしても届かない、心と心が通い合わないような、そんな危険が舞う。世界とは終わるものではなく、限りなく続いていくものであって、共同というか協力というか、そういった精神が薄れてゆくことで、モラルハザードが群れとなって進行する。依存と支配。できるなら、どちらも持ち続けていたい、そんな感情かも。

 難しいことを考え始めるときりがない。でも、考えることを止めることは、息を止めることと同じ。迷いも当然、悩みも当然。苦しんで当然。だからこその命。しばらく、思考は止まらないようです。